人間は嫌いだったんです。
僕のお母さんは遠い昔、密猟者に殺されました。
隠れていなさい、と怒るように言ったお母さんの顔を覚えています。
大丈夫よ、と僕を撫でたお母さんの声を覚えています。
しかしお母さんは、あの日、訪れた密猟者により理不尽な死を遂げました。
僕はひとりぼっちです。
最初は悲しくて寂しくて怖くて、たまらなくあの人間が憎たらしかったです。
でも僕にはどうすることもできません。
小さく弱い生き物に過ぎないのです。
だから、ひとりでも平気になろうとしました。
お母さんが生きていくために大切なことは全部教えてくれたから。森のことは何でも知っています。木の実がたくさん取れる木。美味しい湧き水が溢れる場所。夏に涼しい木陰。冬に暖かい日向。夜は、誰にも見つからずに安全に眠れる場所。
だから大丈夫なんです。
僕は平気です。
でも、あの日。
お母さんを殺した密猟者が再び森を訪れました。
仕返しだとか報復だとか、そんなことは考えていませんでした。
ただ、不安で見張っていたんです。
そうしたら銃声が鳴り響き、僕の右足からは血が大量に溢れ出していました。
痛みを理解するのに時間がかかり、僕は足を引きずって逃げました。
痛くて、痛くて、死ぬんだと思いました。
――お母さんのところに行けるんだなと思いました。
そんな時に、あの人に助けてもらったんです。
威嚇する僕に穏やかに笑いかけて、優しく手当てをしてくれました。
いつまでもここにいていいのよ、と言ってくれました。
ふかふかのベッドや、温かいご飯、安心して眠れる場所。
あの人との毎日はとても楽しく穏やかで、温かいものでした。
なんとなくお母さんみたいで、大好きでした。

でも、あの人も死んでしまったんです。
病気だと、お医者様は言っていました。
僕は、またひとりになってしまいました。
ひとりで、ひとりだから、怖くて、たまたま鏡に自分の姿が映った時に、あの人の姿に化けてみたんです。自分で言うのもなんだけれど、とても上手く化けることができました。
いたずらにあの人の姿で、あの人の家で、人間のふりをして過ごす。
最初は、遊びだったんです。
寂しさを紛らわせたくて、やっていたことなんです。
実際は、虚しさだけを積み上げていくだけの毎日でしたが。
でも、あの子が、nameが、きてしまって。
とても焦りました。
逃げることも考えました。
知らないふりをして、いなくなろうって。
でも、できなかったんです。
彼女は泣いていて、「助けて」と言ったから。
僕は人間の言葉は話すことはできません。
でもわかるんです。
だから、僕はもしかしたら、nameを助けられるのかなって。
だって僕もひとりは怖かったし、彼女と利害は一致してました。
だから、あの人のふりをして、彼女と暮らしてきたんです。
彼女は僕があの人のふりをして笑うと、嬉しそうに笑ってくれました。
僕はそれがとても嬉しかったんです。
僕を必要としてくれている。
もうひとりじゃない。
幸せでした。
ただ、彼女にあの人が死んだことは知られてはいけません。
そしたら僕はここにはいられなくなるから。
だから、ポストに入ってる手紙は全部捨てていました。
人間の言葉は読めないから、もし、それに関して何か書かれていたら終わってしまうから。
だから、そうして生活を守りました。
nameが大好きでした。
彼女を守ってあげたかったんです。
笑っていて欲しかっただけだったんです。

でも、アナタにバレてしまいましたから。
Nは、僕たちの言葉が分かるんですね。
察しの通り、僕は人間に化け続けるために命を削ぎ落としてきました。
もしかしたら、もう。
そしたらnameはまたひとりになってしまいます。
ひとりになったら、またあの日みたいに泣いてしまうかもしれません。
笑って欲しかったんです。
彼女にとって、ここは世界です。
世界は、壊れてしまう。
それはとても怖いことだ。
そうでしょう?

だからN、彼女に伝えてくれませんか。
それで、もし、もし良かったら、nameを助けてください。
僕は、もう。



「『騙していて、ごめんなさい』と、この子は言っていたよ」

微睡む子供に御伽噺を聞かせるような、そんな穏やかな口調で彼は言った。その瞳は憂いを帯び、静かな悲哀を宿している。細い指先が背骨をなぞるようにゾロアの背中を撫でた。その感情の視線の先にいるのは、あくまでも弱り切ったゾロアだった。私に顔を向けるたび、火が消えるように感情が抜け落ちる顔は、ひどく冷たく無関心である。
彼の声を、まるで歌詞を知らぬ曲を耳にするような心地で聴いていた。ところどころ、ポツリポツリと意識に残る単語は、まるで布地に広がるシミのように胸中を穿つ。
――まるで理解ができなかった。それこそ童話を読み聞かされているような気分だ。現実味のない言葉が雪のように静かに頭の奥に降り積もっていく。他人の不幸自慢を貪るような不快感に、私は否定するように唇を噛んだ。
そして何かに誘われるようにリビングを飛び出す。浅く呼吸を繰り返し、目の前の現実を押し退ける。彼の言葉をも払いのけ、私は家の中を探し回った。

「おばあちゃん、どこにいるの?」

部屋、倉庫、リビング、キッチン、お風呂場、トイレ。手当たり次第に声を投げつける。しかし返ってくるはずの反応はない。その姿も気配も、何処にもない。ドアを開けるたび、空の部屋を見るたび、焦燥が積み重なっていく。比例するように肥大化した熱は喉元まで込み上げてくる。
何処にもいない。
バタバタと家の中を巡る足は、再びリビングへと戻ってくる。そこには先ほどと同じように、Nとゾロアがいた。
いない。
いない。
遠ざかる現実味にぐらりと足場が崩れ、その場に蹲った。床の硬質な冷たさが、膝に鈍い痛みを響かせる。それすら否定するように、奥歯を強く噛み締めた。
いつもならば、すぐに笑顔と姿を見せてくれる。私の声に応えてくれる。家を出るまで、確かにいたのだ。しかし、何処にもいない。
いない。
いない。
いない。

「いないよ」
「――!」
「言っただろ。もう死んでいるんだ」
「うそ」
「キミが祖母だと思っていたのは、ゾロアが化けた姿だ」
「嘘だよ」
「信じられないのなら、身内に確認するといい」
「嘘に決まってる!」

大きな声が反響した。しんと張り詰めた空気が気道を塞ぐ。瞼が熱い。私は無様に床に座り込んだまま、Nを睨んだ。それしかできなかった。彼はまるで不快なモノでも見るように、表情を歪めて私を見ていた。何故、そんな顔で私を見るのか。どうしてそこまで無神経に振る舞えるのか。その視線に内臓が抉られるような激情が込み上げる。憤怒とも、悲しみともつかない感情が喉を突いた。

「やめて、やめてよ。なんでこんなことするの?」
「このままだとゾロアが弱って死んでしまうから」
「嘘だよ……! おばあちゃんを何処に隠したの!」
「だから、キミの祖母は2年前に亡くなってるよ」
「やめて! おばあちゃん、具合が、具合が悪いのに、そんな、やめて、やめてよ、悪化したらどうするの、やめて、返して」
「いないよ」
「うそ……!」
「いないんだよ。初めから」
「返して、返してよ、お願いだから返して……!」

声を荒げるほどに床にパタパタと温い水滴が落ちていく。Nの表情は依然として変わらなかった。壊れた蓄音機のように、私はただ「返して」と泣き叫ぶ。ボロボロと崩れた視界は、涙の色で染まった。呼吸も、思考も、言葉も、全てが巧くない。こんなバカみたいな嘘に騙されるな、と悲鳴を上げる理性とは別に、もっと内在的な諦念が私をせせら笑った。感情が攪拌されて頭の芯を溶かす。堰を切ったように、得体の知れない虚しさと寂寥感が背骨を雁字搦めにした。
彼はゾロアを優しく撫でている指先を止め、私の目の前に歩んできた。凍りついた湖面の瞳が私を見据えた。

「キミは幻に縋っていただけだ。最初から独りだったんだよ」
「違うっ」
「ずっと、ずっと、こうして嘘を信じていた方がましだとでも言うのかい?」
「なん、で、なんで……」
「……」
「どうして……こんな……なんで、壊すの」
「キミは」
「知らないままで、良かったのに。私、必死に、頑張って、だって、そうしないと、そうしようって」
「嘘に縋ることは楽かもしれないけれど、僕はこの子がキミの為に弱っていく姿を見ているだけが嫌だった。だってそうだろ? 嘘の為に、キミのために、どうしてこの子が命を削らなければならないんだい?」
「それでも、騙されてた方が、倖せだったのに」
「!」
「このままで良かったのに、これで倖せだったのに、なんで、やめて、壊さないで、ひどい、返して」
「name」
「私のシアワセ返して、返してよ――!」

――返して。
本当は、知っていたのかもしれない。知らないふりをしていただけだ。知らないと自身に思い込ませていただけだったのだ。よく考えれば不自然な点はたくさんあった。私は祖母と2年間一緒に過ごしながらも、彼女の声を聞いたことがない。彼女は話さない。話せない。人間ではないから。ゾロアが化けただけだから。
しかしその日常があまりにも心地良かったのだ。それを失いたくなかった。失えばまた独りだ。独りは恐い。寂しくて不安で、途方のない恐怖に襲われる。息も出来ぬ恐怖に怯えた。誰にも必要とされない、要らない人間になるのが恐ろしくてたまらなかったのだ。
だから縋りたかった。縋っていた。

幻でも、幽霊でも、夢でも、嘘でも良い。
その温かさが僅かでも続くのなら倖せだった。笑いかけてくれる。それだけが私が安心して呼吸ができる場所を得た証だ。その事実だけで良かったのに。

「―――ッ」

また、独りだ。子供のように声を上げて泣く。
寂しさ。孤独感。不安。悲しみ。喪失感。全てが螺旋のように繋がって、私の首を絞め上げている。
おばあちゃん。
おばあちゃん。
ごめんなさい。

ゾロアが傍らに寄り添い、小さく鳴き声を上げた。私と向かい合うように床に膝をついたNは、詰まらなそうに「可哀想だね」と呟いた。

――ごめんなさい。




20111105

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